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古き良き寺泊の思い出

株式会社サンクス社長・
鈴木恒一氏①

2022101

 株式会社サンクス社長、鈴木恒一氏は、1950年(昭和25年)長岡市(旧寺泊町)のご出身で、今日に至るまで約50年、「新潟」や「食」のお仕事に携わってきました。 

 現在は、首都圏で、魚沼産コシヒカリを使用した「おにぎりチェーン店」の経営や、新潟の食材を百貨店等で販売する催事で、ご活躍されています。

 寺泊は、かつて北前船の寄港地であり、海で栄えた町。今回は、そんな寺泊で過ごした少年時代の思い出を語っていただきました。

 

さっそくですが、子供の頃を振り返っていただきます。やっぱり海が遊び場だったのですか?

鈴木 暇さえあれば海で遊んでいました。今の佐渡汽船(2019年、就航廃止)の近くに小さな灯台があって、その辺りで、ボートを漕ぐまね事をしたり、よく遊んでいました。

 

ボートですか(笑)。

鈴木 オールを一本しか持てなくてさ(笑)。叔父からも、海の楽しさや、怖さを教えてもらいました。

 

今でこそ、寺泊は観光魚市場もあり、新潟県でも有数の観光地になっていますが、昭和30年代頃は、どんな感じだったのでしょうか?

鈴木 今と比べると、不便な所だったと思います。越後七浦シーサイドライン(現国道402号)も開通していなかったので、新潟市に出て行くにも山を越えて行かないとダメでしたね。僕の住んでいた所は、大雑把にいうと海と山の間のちょっと開けた所に人が住んでいる感じでした。前は海、振り返るとすぐ山! 。見上げると断崖絶壁(笑)。今みたいな観光魚市場も無かったし、小さな魚屋さんが炭を起こして焼き場を作って、魚を焼いて売っている位でした。

 

そうだったのですね!

鈴木 長岡方面に向かう電車はありました。田中角栄さんが作った、昔「長鉄(ちょうてつ)」と言ったのですが、越後交通長岡線(昭和50年旅客廃止)です。寺泊新道という駅から西長岡まで走っていました。単線で扉も手で空ける、小さな電車がノロノロ走っていました。さっき言ったシーサイドラインができるまでは、寺泊の人は用事があると長岡に出ていく人が多かったと思います。

 

やっぱり身近に、漁師さんがいらしゃたりしましたか?

鈴木 そうですね。僕の近所には多かったですね。漁に出る船は「焼玉船」でね。僕らは「ポンポン船」と言っていたけど。僕の住んでいた所の周りは、さっきも言ったとおりの地形だから、農業で生計を立てられる程の広さの土地はありませんでした。だんだん畑で、自分たちが食べる分だけジャガイモとかトマト、大根とか作っている感じでした。

寺泊漁港周辺の風景

焼玉船?

鈴木 今はもう見られなくなりましたが、焼玉エンジンで動く船で「ポンポンポンポンポンポンポン」って、うるさい音を出しながら動くやつです(笑)。一人で朝早く出港して、イカ、タコ、カニや季節の魚を獲って帰ってきていました。気のいい人が多くて、知り合いだと、近所に配っていました。

 

もちろん余ったものですよね?

鈴木 流石にそうだと思います。昼過ぎ位に「ばーちゃん、置いとくれー。」「食えさー。」って、玄関先に魚やイカ、タコ、カニとか数匹おすそ分けしていました。

 

いい時代ですね。

鈴木 当時ビニール袋なんてなかったので、そういう家には玄関先に木箱が置いてあって、その中に配っていました。そんなんだから、我が家はおやつに、エビとかカニを祖母が茹でたものを食べていました。子供の頃に沢山食べたので、今はそんなに食べたいと思わないですね(笑)。

 

贅沢すぎですよ(笑)。ここで当時の「食」に関してお聞きしたいのですが、当時の朝ごはんはどんな感じでしたでしょうか?

鈴木 まず、ご飯ですが、電子ジャーなんて当時無いので、炊けたら、すぐ「おひつ」に入れ替えていました。余談だけど、「おひつ」に入れておくと冷めたご飯でも美味しく感じられるのです。味噌汁があって、生卵。それと、近所に豆腐屋があって、朝、お使いで「恒一、豆腐買ってこいやー。」って、小さい鍋持たされて、そこに豆腐屋が豆腐を入れてくれるのですが、湯気が立ってましたね。

 

できたてですか!

鈴木 そうそう出来立です! そんなのを朝、食べてましたよ。

 

さっきのエビやカニの、おやつに続いて、贅沢ですよね!

鈴木 今、思い出しても、あの頃、寺泊で食べた豆腐の味が忘れられないです。

 

出来立てですもんね(笑)。

鈴木 醤油屋や、味噌屋も近所でした。

 

そうなんですよね。昔って、必ず集落というか地域に1軒、醸造所というか、味噌・醤油屋って、ありましたよね。

鈴木 そうですね。だから味噌なんかも、仕込みの時に家の分は年何㎏とか伝えてたのむわけ。いいですよね。必要な分だけ、その都度取りに行けばいいから。

 

何というか、昔は食の生産者と消費者が近い関係にいましたね。

「村社・白山媛神社」より、港を望む・北國街道の名残りが残る街並み

お昼ごはんで、印象に残っているものはありますか?

鈴木 そうですね、朝炊いた「おひつ」のご飯があって、先ほども言いましたが、「おひつ」で保存したご飯は冷めても美味しいのです。味噌汁とおかずに棒鱈の煮付けがあって、あとは、海苔や漬物ですね。あと、のちに東京へ引っ越してからも、春夏秋冬と、しょっちゅう寺泊に帰ってて、東京に戻る日なんか祖母が、おにぎりを作ってくれていました。茶碗2~3杯くらいのご飯に具を4つや5つ入れて、焼きのりで全部包んでに握る、とても大きなおにぎりです。

 

爆弾おにぎりですね! (笑)やっぱり新潟に昔からあったものなんですね。自分も母親が「しその実漬け」を入れて作ってました。

鈴木 そうです。長岡から上野まで7時間。「急行・佐渡」に乗って食べていましたよ(笑)。混んでる時なんか車内の床に新聞紙を敷いて、皆座ったりしてました。なんか大らかな時代でした。

 

お話をうかがっていると、確かに当時は今から見ると不便なことが多かったように思いますが、豆腐にしても、本物だったり、豊かな味だったり。漁師さんのおすそ分けや味噌屋さんとの付き合いも、オープンで、いい時代でしたね。

鈴木 そうですね。

棒鱈の煮付け

爆弾おにぎり

話は変わりますが、寺泊は出雲崎も含めて、「浜焼き」が地域を代表する食べ物なイメージがあります。

鈴木 当時は冷蔵庫が今ほど普及していないから、要するに獲った魚をすぐ焼いてしまえば、魚を傷ませないで売れるという工夫から生まれたもので、魚の保存的な意味が含まれている食べ物ですね。そうすることによって、魚屋は焼いた魚を山の方へ売りに行っていました。行商みたいな感じです。当時は、本当に港に上がったばかりの魚を竹串に丸ごと刺して、炭火で焼いていたから、美味かったです。

 あとは、新潟は各地で「市」の日があるので、魚を味噌漬けや麹漬けにして売りに行ったりとかしていましたね。

 

なるほどです。保存ができて旨味も増すという一石二鳥ですね。

 

鈴木 浜焼きは、元々は、砂浜で焚火をして、その周りに竹串で刺した魚を囲んで焼いたのが始まりで、新潟の近海だとアジ、サバ、タイ、カレイなんかが昔から良く獲れていますね。あと、ハチメ(沖メバル)なんかも、旨い魚ですね。

 現代においては、地元の人が食べる他に、観光客の方に人気の食べ物ですね。色々な魚種が「浜焼き」で販売されています。

 話は変わりますが、たぶん家の母親が初めて寺泊に餃子を紹介した人だと、思っているのです(笑)。

 

うかがいます(笑)。

鈴木 いつかの東京から寺泊への里帰りの時に、東京で餃子の皮を買って、寺泊で豚肉を買って、それを叩いて、玉ねぎを刻んで、餡を作って焼いて振舞ったのですが、そしたら集まってた親戚中の人が「このうんめのなんだー。」って、なって(笑)。ちょっと近所中で話題になりました(笑)。

 

へー! (笑)

鈴木 それほど田舎でした(笑)。

寺泊・魚市場通りと浜焼き

 餃子の話の検証はさて置き。

 鈴木社長が少年期を過ごした寺泊の昭和20年~30年代。そこには、現代社会では、失ってしまったコミュニティの在り方だったり、食文化があったような気がします。不便だから工夫をするのですが、ただ省略したり削除するのではなくて、「豊かさを伴った工夫」が存在していたように思われます。

 もう少し、鈴木社長のお話は続きます。次回は、食品の商社にお勤めになり、ステーキハウスのフロントとしてアメリカでご勤務された時のお話や、ご自身で立ち上げた「おにぎり店」のお話、新潟の食材等のお話をご紹介します。近日、公開いたします。

PROFILE

鈴木恒一氏

 

株式会社サンクス社長。新潟県長岡市(旧寺泊町)生まれ。食品商社にご勤務ののち、首都圏にて魚沼産コシヒカリを使用した「おにぎり店」を開業。百貨店等での新潟県食材の催事販売と併せて、ご活躍中。