紐解く

かつての隆盛

三島郡出雲崎町にて。

202469

 季節は梅雨を迎える。思い返すと、昨年の新潟は、空梅雨による水不足と、引き続いての猛暑により、米の品質に悪い影響をもたらした。

 近年では、なかなか適量という加減が降雨量には当てはまらず、日本各地で水害の報が絶えないのだが、本年においては、適量の雨が降ってくれることを切に願っている。

 その雨をもたらす「雲」が地名についた自治体が新潟県に存在する。

 

 三島郡出雲崎町(いずもざきまち)。

 

 何だか強引に気候の話から、「出雲崎」を話題に出しているが、本来の地名の由来は遠く離れた「出雲国」にあり、出雲大社の御祭神である「大国主命(おおくにのぬしのみこと)」によって開拓された地と言い伝えられている。そして、旧村社である「石井神社(いわいじんじゃ)」には、その「大国主命」が祀られ、古より今日に至っている。

 出雲崎は海辺の景観や街並みが共に美しい小さな港町だ。新潟県の海岸は本土部で約330㎞の長さを有し、各地に大小の港町が存在しているが、筆者にとっては、とても好きな港町の一つだ。海と山が迫り、海側からの弥彦山も眺望でき、日本海に沈む夕陽の美しさは言うまでもない。

 そんな出雲崎が、かつて歴史上、隆盛を誇っていた時代があった。

 まず一つ目が佐渡金山の荷揚港として、江戸へ金銀を送り届ける拠点となっていた頃。江戸時代の初期である1616年に代官所が設置され、幕府の天領地となり、佐渡の小木港から積まれた金銀が出雲崎港で降ろされ、陸路「北國街道」から「中山道」を通り江戸へ運ばれた。

 二つ目が、江戸時代中期から、北前船の寄港地になった頃。

 いずれも出雲崎の「地の利」によるものだが、北国街道の宿場町として、廻船問屋街、旅館街が立ち並び、遊郭も含めて栄えたとのこと。

 しかしながら、資源に関する土地に人が集まることにより、モノと人の流れを生み、街が隆盛を誇る様はいつの時代も同じことが言える。この海岸線と山の間の僅かな土地に当時、二万人が住んでいたとされ、新潟一の人口密度を誇っていたという。

 そんな狭小な土地で、多くの人が居住するための工夫や、当時の税金対策(建物の間口の広さが課税対象)の理由から二間や三間半といった間口が狭く奥行きの長い妻入り家屋が軒を連ね、今に至っている。この約4㎞にも及ぶ美しい妻入りの街並みは、古の時代を想いながらの、そぞろ歩きに最適だ。

海と山の間の狭小地に「妻入り家屋」が街道沿いに立ち並ぶ出雲崎の街並み

 三つ目は、石油の産出地として隆盛を誇った。1891年(明治24年)に、日本石油株式会社が前年に購入したアメリカ製の綱掘機械を海岸の手掘井に設置、掘削し、噴油に成功したのがこの地だ。  

 古代よりこの地に石油という資源があったことは、かの『日本書記』にも記されているが、この採掘の成功で、「日本の石油産業発祥地」として名を留めている。その後、明治~大正~昭和初期まで最大18の製油所が設置され、当時の日本産業の近代化に大きく貢献した。その後、採掘量が激減するも、1980年代まで採掘されていたと言われている。

 現在、その石油産業遺構及び資料は「出雲崎石油記念館」や「石油記念公園」等で観ることができる。

 改めて考えると「金銀」「北前船」「石油」と、新潟はおろか、かつての日本を支えていた資源、経済、産業に出雲崎が深く関わっていることが興味深い。先ほども記した通り、この地には、多大な活気や喧騒があった。モノや人の動きが、大きな渦を作り、この狭小な海辺の土地に多くの人々を募らせた。

 

 栄枯盛衰。

 

 言うなれば、これは世の習いであり、理だ。時は過ぎ、現在この地には金銀の流通や北前船や石油も無い。

 ただ、その遺構や街並み、そして美しい自然とが醸し出す風情や情緒は、隆盛を誇っていた時代とコントラストになり、より一層「しみじみ」とした感情を訪れたものに植え付ける。

 また、この地は江戸時代後期の詩人・歌人・書家としても著名な禅僧「良寛」が生まれ育った場所。そのことも踏まえて、改めて、出雲崎を綴ってみたいと思っている。

「石油産業発祥地記念公園」内に置かれている「石油蒸留釜」