新潟県三条市下田地区吉ヶ平。
雑に表現すると、三条市の一番奥、最果ての地。ここには昭和45年まで、小さな集落が存在しており、最後の集団離村の日まで、19戸が残っていたそうである。
今でこそ、最果て感が漂うこの地であるが、江戸時代から明治時代末期にかけては、多くの人の往来があった。
上記画像の山道は、途中、魚沼市を通り隣県の福島県只見町まで続いていて、「八十里越」と称する峠の道を歩むことになる。概算で、ここ三条市下田から、福島県只見町までは「八里(約32㎞)」の距離であるが、その道中の険しさゆえに、10倍に感じられることから「八十里越」と名付けられたそうである。
当時、新潟県側からは、塩、魚などの生活物資を。福島県側からは繊維の原料など、それぞれを運ぶための重要な街道だったそうだ。
慶応4年(1868年)、この八十里越を傷を負い担架に乗せられ越えた者がいる。
―長岡藩 軍事総督 河井継之助―
カワイツギノスケ。司馬遼太郎の時代小説『峠』の主人公となった人物で、元々、長岡藩家老の職にあったが、あの「北越戊辰戦争」において軍事総督を務めた者である。
日本の歴史上、「関ヶ原」に次いで国内を二分させた戦いと言える「戊辰戦争」において、長岡藩が下した決断は新政府側、旧幕府側どちらにも属さない「武装中立」。
しかしながら、慶応4年5月2日、現在の新潟県小千谷市にて行われた河井継之助による新政府軍との緊褌一番な談判は決裂。
その結果、長岡藩は苦渋の決断として、旧幕府側として、新政府軍と戦うこととなり、ここからの三カ月が長岡藩及び、河井継之助にとって苛烈極まりない運命との対峙の始まりとなった。
当方は、歴史家では無いので、恐れながら詳細は割愛させていただくが、結果として同年の5月19日長岡城は落城するのだが、長岡藩は7月25日に城を奪還するという離れ技をやってのける。しかもその軍事作戦は前日24日の夜「八丁沖」を渡河するという奇襲作戦によってである。「八丁沖」は当時の一大湿地帯で、南北5㎞東西3㎞に及んでいた。葦が茂り、中央部は底なし沼で魔物が潜む沼と言い伝えられていた。新政府軍のみならず誰もがこの場を行軍できるとは思っていない場所。そこを長岡藩兵700名は、24日の午後10時から6時間かけ渡り切る。汚泥に浸かり、息をひそめながら。
結果、前出の通り作戦は成功し、長岡城を奪還する。しかし、長岡藩の躍進はここまでで、河井継之助はこの戦いの途中で、左脚に被弾し、重傷を負う。さらに新政府軍からの猛反撃を受け、7月29日長岡城は再びの落城を迎えてしまう。
―会津へ向かう―
満身創痍の河井継之助が次に自身に下した決断である。担架に乗せられ、見附、栃尾と通り、8月3日に「吉ヶ平」に到着。1泊し、翌朝、八十里越に向けて出発したと言われている。
- 新政府軍との談判の決裂
- 一回目の長岡城落城
- 八丁沖での軍事作戦遂行
- 二回目の長岡城落城
- 自身の被弾
- 満身創痍で臨む八十里越
会津に落ち延びる前夜、吉ヶ平の宿で河井継之助の胸に去来していたものを想像すると五臓六腑を掻き出すような峻烈な思いがあったのではないだろうか。そして、八十里越の道中、有名な句を残す。
―八十里こしぬけ武士の越す峠―
「こしぬけ」とは、「腰抜け」という自身への自嘲と「越ぬけ」という越後を去る思いが重ねられているという。
そして、8月5日、現在の福島県只見町に到着するも、被弾した傷から破傷風を起こしており、目指した会津若松に辿り着くことなく、8月16日にその人生を終えることになった。享年42歳。
と、ここまで154年前の話を長々と綴ってしまったが、現代おける「吉ヶ平」は、数年前から三条市が、集団離村前まで、この地にあった小学校の分校跡地を「吉ヶ平自然体験の郷」として、運営している。分校の校舎を利用して存在していた吉ヶ平山荘も立て替えられ、立派な施設になっている。すぐ脇を守門川が流れ、釣りやキャンプなどを楽しめる場になっている。
今、この地を訪れた時、この場で、しみじみと焚火でもしながら、歴史に思いを馳せ、幕末の時代小説、それこそ『峠』を読書してみたい気持ちになった。
守門川のせせらぎ、焚火の爆ぜる音。柔らかな秋の陽ざしの中、この上ない時間が過ごせるような気がしている。