紐解く

秘境という磁力

魚沼市銀山平にて。

2026511

 暦は五月を迎えた。旧暦の呼び方では、皐月(さつき)と称され、「早苗を植える月」という言葉が略されたことに由来していると言われている。文字通り、筆者が生活する三条市近辺でも田んぼに水が張られ、田植えが始まった。草木は爽やかな風になびき、新緑は眩しく、風薫る季節とはまさにこのことだ。

 ところが、前出の環境で暮らす者にとっては、季節が後戻りしたように、今まさに桜が見頃を迎え、雪解けた地面にフキノトウがボコボコと顔を出している地域がある。

 

 新潟県魚沼市銀山平

 

 旧北魚沼郡湯之谷村のこの地は、古より新潟県内でも「秘境」と呼ばれている。また、その名の通り、かつてここでは「銀」が産出された。江戸時代前期にあたる1657年~1681年の間、高田藩によって鉱山開発され、その後、幕府の直轄領となった周りを山岳で閉ざされた辺鄙な場所には、最盛期、千戸を超える住居や寺院、宿場、そして当時こういった環境ではお決まりとも言える遊郭もあり、隆盛を誇った。

 しかし、その一大鉱山街も、相次ぐ地盤崩落、地下水流出事故や、資源の枯渇より江戸時代末期に閉山となり、一時期、良質な鉱物を大量に産出していた国家的プロジェクトは終焉となった。

 時は過ぎ「昭和」の時代となっても、この地は国家的プロジェクトの舞台となった。1953年(昭和28年)から電源開発株式会社によって奥只見ダムの建設が始められた。建設の背景には、第二次世界大戦終戦後の国の復興に、発電エリアの開発が国家的課題となったことが挙げられ、ダムは総工費400億円をかけて1962年(昭和37年)に完成し、前出の一大鉱山街の跡地は、この日本最大級の人口湖と言われる湖底に沈み、数奇な歴史を携え今に至っている。

奥只見シルバーライン(左上)と銀山平の「初春」の風景

 次にこの地が「秘境」と呼ばれる所以は、あまりにも過酷な気象条件や立地が挙げられる。日本でも有数の豪雪地帯で、その積雪量は6~8mにもなる。そのためこの銀山平に通じる道路は例年11月末~翌年4月末位まで冬季通行止めとなり、人が立ち入れなくなる。

 通行止め解除の後も、この地に通じる道路は、決して平坦では無い。一つは大湯温泉の手前から入る「奥只見シルバーライン」。前出の「奥只見ダム」建設の際に資材搬入道路として造られた道路である。奥只見ダムまでの22㎞の区間の内、実に18㎞が19個のトンネルで占められている。岩肌が露出されたトンネル内をひたすら上って行くだけで非日常な異空間を感じることができる。

 もう一つが、大湯温泉を通り、「枝折峠」を経由して行く「国道352号線」。この道はいわゆる「酷道」で、今では舗装区間になったものの、昔は、一部未舗装、ガードレール未設置区間や離合困難箇所が多々ある険しい峠道で、「転落事故多発」や「死亡事故」「初心者はシルバーラインへ」等の看板が恐怖心を搔き立てたものだった。この道路に至っては例年11月初旬から翌年6月下旬位までは通行止めとなる。

 以上のことから、ここ銀山平で観光業を営んでいる方々さえも、冬期間は休業をせざるを得なく、こういった容易に人を寄せ付けず、気軽に住まわせない環境によって育まれる自然が「秘境」感を漂わせるのだろう。

 しかし、筆者も「秘境」と綴っていながら言うのもなんだが、これだけ情報が発達して、「秘するもの」が減少したと思われる現代でも「秘境駅」「秘境めし」という言葉が巷で飛び交うように、「秘境」という言葉は、良くも悪くも多くの人々を引き付けてしまう「磁力」がある。特に手つかずの自然の産物というものは、秩序や制限が無いと消費、搾取される一方になる。この地においては魚類がターゲットになった。前出の奥只見ダム(銀山湖)には、50㎝~60㎝を越える大イワナやサクラマス、ニジマスなどの天然魚の宝庫であったが、釣りブームや密猟などによる乱獲で1970年代には著しく漁業資源が低下していた。

 そんな状況を憂い、この銀山湖を含めた銀山平の環境保護、保全活動を現地の有志達と始めたのが、この地をこよなく愛していた稀代の小説家、開高健であった。

石抱橋から北ノ又川上流を望む・この橋から上流すべてが種川として永年禁漁区になっている

  全く以って僭越ながら、開高健の概要を綴ると、1930年(昭和5年)大阪生まれ。現サントリーの宣伝部にて、コピー制作やPR誌の編集に従事。在籍中に文壇デビューを果たし、三作目の『裸の王様』で第38回芥川賞を受賞。(その時の審査員は、川端康成や三島由紀夫らが、名を連ねている)その後、ベトナム戦争従軍での壮絶な体験を基にしたルポルタージュ作品や、釣りや世界の旅、美食をテーマにした紀行文、エッセイ等で数々の著名な文学賞を受賞。思いっきり下世話な表現を使うと、「ガチの昭和の文豪」と言える。

 そんな開高健が後年、執筆活動と共に尽力したのが、前出の銀山平及び銀山湖、奥只見での、魚類環境保護、保全活動だ。まず、自身はルアーフィッシングを好んでいたので、この地でいくら大イワナを釣ろうとも「キャッチアンドリリース」を実践、推奨していた。1970年代の初めにおいては、日本の釣りでは、この概念は稀で、著名な文化人であったこともあり、定着させる契機を作ったと言われている。そして、1975年に著名なルアーフィッシャーや銀山平の方々等と共に「奥只見の魚を守る会」を立ち上げる。この会は稚魚の放流を始め、北ノ又川上流をイワナ。ヤマメの種川(産卵場所)として三年間の禁漁ののち、日本で初めて永年禁漁区に制定。密漁者対策として、小屋を設置しての駐在監視活動や新たなイベントとして「フィッシュウオッチング」の開催など、厳正かつ未来を創造する活動を行った。会の地道な活動により徐々に、魚類の環境は改善されていったが、1989年(平成元年)12月闘病の末、開高健は没する。享年58歳。 

開高健が好んで食した山菜焼き飯。故に「開高めし」の名が付いている。

 もうすでに没後37年が過ぎているが、筆者の中にも開高健が生きた放熱の記憶が残っている。テレビで「巨大魚を釣る」番組が、釣り好きな一少年に刺さっていた。釣れるかどうかも分からない魚を求め、海外に赴き、屈託のない丸顔とおっちゃん体型(個人の感想です。)で関西チックな独特の語り口で、豪放磊落に現地の人、風景に馴染む。そして、ルアーをぶん投げながら、ユーモラスでウイットに飛んだ蘊蓄や言葉を発する。また、「喰らう」という表現がぴったりな食事シーンや、ウイスキーを飲むシーンなどなど、強烈な個性を画面越しに感じたものだった。

 「食」の話でいうと、「開高めし」と呼ばれるメニューがある。平たく言ってしまうと、山菜入り甘辛醤油味のチャーハンなのだが、その昔、開高健が執筆活動で逗留した「村杉小屋」での食事で出され、いたく気に入って以来、好んで食べたことで、その名が称されている。最初に食べてから色々、「村杉小屋」に、蘊蓄やご指導があったことは容易に想像できるが、(筆者の勝手な想像です。)現在では、銀山平を始め、魚沼市内のお店でも食することができる「ご当地グルメ」となっている。

 

 そして、奥只見の魚のこと。

 

 その後も、新ダム、発電所設置案の浮上や、それに伴う「イヌワシ営巣地」問題。また、銀山湖でのブラックバス密放流問題など、多様な問題が発生したが、銀山平及び、魚沼市等の有志の方々のご尽力により、紆余曲折を経て、現在に至っている。「奥只見の魚を守る会」は存続し、北ノ又川上流の永年禁漁も守られている。また、銀山湖では捕獲数制限が設けられ、1970代のような状況が起こらぬよう懸命な活動がなされている。「秘境を秘境のまま」、「銀山湖は銀山湖のまま」、次世代に繋げていきたいという開高健の想いは今を生きる者にしっかりと受け継がれているようだ。

 そして、石抱橋のたもとには開高健の文学碑が建立され「河は眠らない」と記されている。北ノ又川に寄り添うように佇むその姿に、いみじくも開高健がこの地を愛する魂は未だ眠っていないように感じるのは筆者だけだろうか。

 

※画像は4月30日に銀山平を訪れた時のものです。

没後、「奥只見の魚を守る会」により設置された、開高健の文学碑・今も石抱橋の畔、北ノ又川を見守るように佇んでいる