新潟の季節は、着実に冬へ向かっている。暦は立冬を過ぎ、冷たい雨が降る日も増えてきた。そんな季節の変わり目に、まさに小春日和といえる日に巡りあうと、何だか得をした気分になる。これから訪れる冬の前の貴重な時間だ。
久しぶりに、新潟市北区にある福島潟を歩いた。福島潟は新潟市に現存する「潟・湖沼」の中では最大の「潟」で、これからの季節は次々と渡り鳥が飛来し、ここで冬を越すことになる。ハクチョウやカモ類はもちろん、国の天然記念物であるオオヒシクイも飛来する。その飛来する鳥は220種類を超え、また、450種類以上の水生・湿生植物が確認されており、江戸時代から昭和にかけ、干拓が行われ面積は縮小されているが、現在においても自然が多く残る、新潟の原風景だ。
そんな福島潟を訪れ、空を見るのが好きな時間の一つだ。広大な空を見る場合、新潟だと海や田んぼを思い浮かべる方も多いと思われるが、この「福島潟」で見る空が何とも言えず好きなのだ。
そんな空を見上げ、いつも思い浮かべる言葉がある。
「行雲流水(こううんりゅうすい)」
言葉自体の意味を調べると、
――空を行く雲や流れる水のように、深く物事に執着せず自然の成り行きに任せ行動することの例え。――
と、記されている。
この言葉は、自分が仏教に興味を持った頃、「禅の言葉」として知った。ちなみに、曹洞宗や臨済宗などのいわゆる禅宗の修行僧を「雲水」と呼ぶ。その禅宗における仏教的な精神や価値観、そして自然の一部としての人間の在り方など、雲や水になぞらえて、いるのだろうか。
また、まさしく雲や水のように、一つの場所に留まることなく、諸国を行脚する修行僧もこう呼ぶそうだ。
思えば、人間の肉体というものは、悠久の時や、森羅万象の営みの中では儚いものだ。浮かんではやがて消えゆく雲や、留まることなく流れて行く川の水の流れと一緒で、この「時空」の中では、だれもが平等に「滅」に向かって常に変化し続け、一つとして同じ状態であり続ける物質は無く、まさに諸行無常なのである。
そして、自分の中でいつしか「行雲流水な生き方」を志向することが人生のテーマになっていた。
無論、それは簡単なことでは無い。
振り返ると、欲望の風に煽られ、後悔の濁流に飲み込まれ、執着という汚泥に足を取られながら、自然の流れにいちいち抗って生きてきた身にとっては、身の程知らずなことなのかもしれない。自分が、後どれ位生きることができるのか分からないが、いつか「行雲流水」の心境に辿り着き、欲望、後悔、つまらない執着などを意識すること無く、自然の摂理に則り、生きれるだけ生きれたら、それでいいのではないかと思っている。また、「雲水」のように、新しい知見を求め、死ぬまで旅を続けることができるのなら、それは、幸せなことだと思っている。
と、ここまで綴ってきて、お気づきの方もいらっしゃると思われるが、どうやら「行雲流水な生き方」を志向し、願う自分は、そのことに執着しているようだ。
何だか、禅問答みたいになってきたので、この辺で。