紐解く

昭和の記憶

上越市直江津にて。

202636

 筆者は昭和46年に生まれた。

 単なる時代のめぐり合わせでしかないが、少年期は「昭和」。社会人になり大半を「平成」。そして、とっくに半ばを過ぎている残りの人生を「令和」。と、生きている。

 今、振り返ると、昭和は何かと手間の掛かる時代だった。スマホはおろか、のちに「ガラケー」と呼ばれた携帯電話も無く、インターネットや、無論、SNSも無い。情報収集やコミュニケーションの手段に、とにかく手間や時間がかかった。

 当時、メールとは文字通り「手紙」である。中学生になり生意気になる頃、思いを寄せる女子との特別なコミュニケーションの手段は「手紙の交換」だったし、そういった方への電話も「公衆電話」から先方の「家の固定電話」へ掛けるスタイルで、大体まず電話に出るのが親なので、そこを乗り越えて行く心の葛藤や勇気が必要だったりしたものだ。

 少し、おっさんの余計な感傷めいたものを吐露してしまったが、ここからは話を昭和の時代、当たり前だった「様式や情緒、風景」ついて綴っていきたい。

 昭和から平成、令和と環境や様式が著しく変化した物の一つが「鉄道」だ。一言でいうと衰退の一途をたどっている。正確には昭和30年代後半から昭和40年代にかけて衰退が本格化し始めたと言われているが、筆者が中学生から高校生の昭和60年代は、最寄りの駅も、人の往来が多く、それなりの活気があった。

 思い返すのは、友人と行った昭和62年冬の鉄道旅である。幼少の頃から列車で、ただただ遠くへ行きたいと願っていた筆者が、それを実現させたのがその旅であった。「青春18きっぷ」を使った鈍行列車の旅だ。当時は、今のように券売機でペロッと一枚発行された切符ではなく、表紙の付いた5枚綴りの冊子仕様の切符で、使用する一日一日ごとに日付をスタンプしてもらう形になっていた。当時の価格は、一万一千円。一日、二千二百円でJR全線の普通・快速列車が乗り放題となる切符だ。

 

 先ず目指したのが、関東方面だった。始発に乗り、群馬県の水上駅に向かう。小説『雪国』の冒頭で有名な―――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった―――を逆に行くルートで、新潟県民にとっては、冬、国境のトンネルを抜けると青空が広がっていると、幼い頃から刷り込まれていたので、実際にそういう天気だったのが感慨深かったのを憶えている。そして、乗り換えの水上駅のホームで「岳の釜めし」とお茶を購入した。お茶もティーパックをポリの容器に入れ、その場でお湯を注いだもので、絶妙に容器の風味がお茶に漂うものであったが、その非日常さが、旅の気分を一層駆り立てくれたものだった。

 旅程については、所持金も潤沢にある訳ではなかったので、

  • 新宿発 上諏訪行
  • 天王寺発 新宮行
  • 大垣発 東京行

三泊をそれらの夜行列車に乗車する事でやり繰りした。新宿発の夜行列車では登山客、天王寺発の夜行列車では釣り客で車内はごった返し、席に座れない客は床に新聞紙などを敷いて一夜を過ごしていた。

 また途中、京都でも宿泊したが、宿探しが一大イベントであった。現代においてはそんなことは、宿泊予約サイトで簡単に済むことだが、携帯もネットも無い時代である。宿の情報は、持っている時刻表の後ろ数ページに記載されている広告や宿リストに頼るしかなく、時刻表を片手に駅の電話ボックスから予約を取った。何せ、情報が活字と挿絵みたいなものしか無かったので、宿に着くまでどんな所か変な想像が働いたものだ。

 その時は幸いにも想像よりも良い宿だったので安堵したことを憶えている。一人、三千五百円の出費だった。場所は、「京の旅館通り」。古びた旅館が軒を連ねる何とも風情のある場所だった。

国鉄型観光急行・2026年3月北陸色に塗装し快速列車へリニューアル

 そんな旅における食事は、駅ホームの「立ち食いそば」がメインだった。

 当時は、「かけそば」が200円代の前半(正確に記憶していない)で、+40円位で「月見そば」を食べることができた。個人の性格的な面もあるが、毎食に近く「立ち食いそば」を利用していても飽きることは無かった。まず、各駅で微妙に味、容器の違いや、中京地区では「きしめん」、関西地区では「うどん」と変化を楽しめたし、関西の透き通ったうどん汁に初めて対峙するなど貴重な体験となった。何よりも、冬のローカル線の乗り換えホームに降り立つと、湯気が立ち込め、出汁の匂いが漂ってくる「立ち食いそば」が食欲を駆り立てるのだ、そこで、鼻水をすすりながら食するのが、旅情を感じるひと時であった。

 

 そして、時は過ぎ「令和」の世の中。

 

 数々の路線が廃止になり、駅の無人化や車両運行のワンマン化など、鉄道や駅に関わるコミュニティから、どんどん人が減った。国境のトンネルを越えた水上駅には、もう駅弁も売っていないし、高崎に向かう普通列車はロングシート車両で、のんびりと景色を眺め飲食できる空間では無くなった。また、列車の中で新聞紙を敷いて一夜を過ごすことも憚られる世の中になったし、そもそも定期運行している夜行鈍行は皆無になった。

 「立ち食いそば」に関しても、ローカル線のホームで営業しているものは、ほぼ見なくなった。新潟県内においても、乗り換えの発生する駅には、ほぼ存在していたが今では、新潟、長岡、直江津、越後湯沢等の主要駅の改札外で営業しているのみだ。

 

―――あぁ、昭和の鉄道旅の情緒を今一度味わいたい―――

 

 そんな時、筆者は、「直江津駅」に向かうのが一つの手段だ。「えちごトキめき鉄道」が頑張っていて、国鉄型急行車両を保持、運行している。時折、観光企画で夜行運行も実施し、昭和のボックスシートにも座ることができる。

 沿線にはスイッチバック式の「二本木駅」やトンネル内の「筒石駅」も現存していて見所が満載である。

 また、直江津駅前の「ホテル ハイマート」が今も駅弁を製造販売している。東日本駅弁大会で優勝の実績がある「鱈めし」や「さけめし」「にしんめし」など新潟感溢れる品揃えで、人気を博している。加えて、立ち食いそば店「直江津庵」も運営していて「メギス天そば」「イカゲソ天そば」など直江津ならではのメニューを取り揃えていて、直江津駅構内を走る列車を眺めながら食することができる。

 何でも、この三月、えちごトキめき鉄道が国鉄型急行車両の塗装を「北陸色」にリニューアルし、快速列車として運行するとのことである。また、改めてこの地を訪れ、街をぶらぶらし昭和の風情を堪能しようと考えている。「鉄道のまち」と言われる「直江津」は今も健在だ。

直江津駅改札外・「直江津庵」イカゲソ天そば