村上市塩谷というところ
新潟県最北の市「村上」。その市街地から南西に位置する「塩谷」地区。荒川河口と海岸に面したこの土地は、かつて北前船の寄港地として隆盛を誇り、海運や漁業、酒造や味噌・醤油などの醸造業も盛んに行われ、多い時には300軒ほどの集落に8軒もの醸造業者が存在していたと言う。
また、現在も切妻屋根の建物が軒を連ね、家の軒下などには、他の地区ではあまり見ることのできない焼き印や家印とも呼ばれる、その家独特の印が掲げられ、古の湊町の歴史情緒溢れる風情をより一層駆り立てる。
今回は、そんな村上市塩谷の味噌・醤油の老舗・野澤食品工業を訪ねるスローな休日です。
1836年(天保7年)創業
野澤食品工業株式会社の変遷
野澤家はその昔、「米沢屋」の屋号を持つ商人で18世紀中頃には船宿を営み、日本海廻船との商業活動も行い、米や干鰯などを上方商人と取引していたとのこと。
その後、時が流れ、村上藩領地の縮小や、潟の埋め立てなどによる、内陸部水路の廃止により、米の流通量が減り、塩谷地区は収益も減少し、衰退の一途を辿っていた頃、活路を見出したのが「北前船」による松前、箱館や蝦夷地との交易だった。塩谷からは、米、酒、味噌、醤油、酢などの加工品が運ばれ、松前、蝦夷地産物が豊富に移入された。
そんな中、野澤家は、天保7年(1836年)に「酒株」を購入し、一から設備一式と原材料の買い入れを一気に行い、酒造開始後の翌年には出荷を始め、箱館や蝦夷地に、高額で取引されていたと言う。
幕末から明治初期にかけては、北前船との取引関係を維持しつつ、自ら船主・廻船商人となり、主に自家製造の酒と越後米、庄内米を松前・北海道へ輸送・販売し、帰りは北海道産物を積載し、帰路周辺地域に売り捌くという商業経営を始め、その北海道交易は、汽船の発達で北前船が衰えてもなお、酒造業と廻船業を軸に維持されていたとのこと。
その後、廻船業は羽越本線の開通を契機に大正期に廃され、酒造業も第二次大戦下の統制経済のもとで昭和19年(1944年)に廃業を余儀なくされる。
そんな転機にも、またもや野澤家の動きはダイナミックかつスピーディだ。酒造業をやめるとすぐに味噌の製造に着手し、昭和27年頃からは醤油の製造を始め、現在に至っている。
時流の中で、幾度と訪れた転機にも逞しく、自らの道を切り開き、創り上げてきた野澤家の系譜と家風がうかがえる。
「蔵見学」に参加する
野澤食品工業は予約制により蔵見学が可能です。国登録有形文化財の店舗兼主屋の中に入り、製造所では、醤油・味噌がどのように作られているのかを知ることができます。
また別途、「蔵見学(味わいコース)」では、見学時に、醤油の製造過程の2~3種類ほどを味見していただき、発酵で変化する「もろみ」を味わうことが可能です。費用は500円(税込)になります。
蔵の中は、貴重なものばかり。それに加えて、今もなお、昔ながらの製造方法にこだわる野澤食品工業の矜持と歴史を五感で感じることができます。
※「蔵見学」は野澤食品工業のホームページから申し込むことができます。
「NOZAWA」
野澤食品工業の取締役・野澤陽祐さんが2018年に社内で立ち上げたのが「NOZAWA」ブランドだ。そのブランドコンセプトは、
- 製造することは出来るが売り先がなく諦めていた醤油。
- 構想はあったが材料が見つからずに作れなかった味噌。
以上、二つの「難しいことへの挑戦」だったとのこと。しかし、野澤陽祐さんは、「二年熟成醤油 ふたなつ」やワイン樽仕込みの天然熟成味噌「ふたたび」という二つの商品化で実現させる。
手間のかかる、丸大豆を使用し、小麦粉も自家焙煎、全数木桶に仕込み、文字通り「ふたなつ」かけて熟成される醤油を作り販売。
ワイン樽を再利用し、大豆は新潟県産アヤコガネ、米はコシヒカリではなく、麹菌が育ちやすい酒造好適米の五百万石とたかね錦(村上産)を使用し、麹の溶け具合と口触りの良い味噌を実現させると共に、樽についたワインの香りが発酵することで味噌に移り、一風変わった深みのある香りがする味噌を製造。
この二つの製品は、歴史や伝統と尊重しつつ、新しい視点に挑戦し続ける、野澤家の現代の象徴的なものと言える。
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