暮らすスローな暮らし

只見線をゆく①

会津塩沢を訪ねる

20221110

 JR只見線は小出駅(新潟県魚沼市)と会津若松駅(福島県会津若松駅)間135㎞を結ぶローカル線です。新潟県内には、小出駅を含め八ヶ所駅があり、破間川の渓谷沿いに、途中「六十里越」という県境を越えて福島県只見町に向けて進んで行きます。

 余談になりますが、新潟県三条市から只見町へ向かう峠を「八十里越」。そして、この新潟県魚沼市から只見町へ向かう峠は「六十里越」と呼ばれている所に、いかに古より、越後と会津の間は交通の難所であったことがうかがえます。

 そんな只見線は2011年の集中豪雨による災害により、福島県内で不通区間だった只見駅→会津川口駅間が復旧し、11年ぶりに全線での運行が再開されました。

 只見線と言えば、ご承知の方も多いと思われますが、全線にわたり美しい風景が車窓に広がることで有名です。自然や四季の移ろいを鉄道でしか通れない場所で、スローで贅沢な「じかん」を味わうことができます。

 また、冬季は豪雪地帯のため県境の「六十里越」が閉鎖になりますが、国道252号線が傍らに通っており、只見線がある風景を車で追っていくのも一つの楽しみ方かと思います。

 「発酵じかん。」では、新潟県の貴重なローカル線として今後も沿線の情報も含め、只見線をご紹介していきたいと考えています。

新潟県側最後の駅「大白川」・列車は六十里越トンネルを目指し、福島県へ向かう

県境の六十里越トンネル(右上)を抜けた列車は田子倉湖畔を通り只見駅に向かう

「会津塩沢駅」から徒歩10分の「河井継之助記念館」

新潟に縁のある「会津塩沢」を訪ねる

 只見駅から会津若松方面へ、二つ目の駅が「会津塩沢駅」だ。福島県只見町塩沢地区。その地名の通り、かつて山塩の生産地であったこの土地は、今から154年前の戊辰戦争の際、長岡藩の家老・河井継之助が負傷の末、現在の新潟県三条市下田地区の吉ヶ平から「八十里越」を通り、落ち延びた際に、逗留し終焉を迎えた場所である。

 

――過去に掲載した、河井継之助のストーリーを見る場合はこちらへ。『紐解く 「八十里越」』――

 

 「会津塩沢駅」から徒歩10分。只見川の畔、国道252号線と只見線沿いに「河井継之助記念館」がある。館内には、河井継之助の足跡の展示や、ダム建設によって沈んでしまった、実際に河井継之助がこの地で、療養し終焉を迎えた家屋の部屋が移築保存されている。

 また、河井継之助を主人公とした時代小説『峠』の作者である司馬遼太郎に関連する掲出物や展示品もあり、歴史好きの方には十分堪能できる施設となっている。

 しばらく滞在したのち、記念館を出て「医王寺」にある河井継之助の墓を訪ねるために数分歩いたが、駅を降りた時からずっと感じていたことを一言でいうと、とても静かな場所ということだ。目に映るもの、耳に聞こえるもの、肌で感じるもの全てが静寂を纏っているように思える。

 そんなこの地が喧騒にまみれたのが、かの「戊辰戦争」であったのだろう。恥ずかしながら、この地を訪れて初めて知ったことなのだが、長岡城が再度の落城をした後、8月2日から8月10日の間に、長岡から「八十里越」を通り、只見に流入してきた引き上げ兵や、避難民が2万5千人にも及んだと言われている。

 

 少し想像を絶する。

 

 何よりも当時の、只見の方々のご苦労を思う。やがてこの地も戦地になるのだが、その前に大挙して難民が押し寄せてきた状態である。

 さらに、只見には長岡藩士の子を預かり育て、長岡藩士の家系を引く家が現在もあるという。この他にも、只見には数々の戦地から逃れてきた長岡の人々の足跡が多く残されている。

 これはもう、歴史の傍観者でしかない自分がいうのは、憚られるのだが、同じ新潟県人としては、ただただ感謝の念を申し上げるしかないのである。

 

 過去の殺伐と現在の静寂。

 

 そんなギャップを感じながら過ごした会津塩沢でのスローな休日です。

移築保存されている「河井継之助終焉の間」

継之助に最期まで仕えた外山脩造(長岡栃尾出身)・のちに阪神電鉄の初代社長となる

静謐を湛える只見川

記念館から徒歩数分のところにある河井継之助の墓