「風土(ふうど)」という言葉の意味を調べると、
―――ある地域の気候・気象・地形・地質・景観などの総称―――
という概念や意味を持っていて、そこで暮らす人々の思考形成や文化に多大な影響を与えていると言われている。
古来より、人は移ろう四季や自然の恩恵の中で生命を紡ぎ、歴史を築いてきた。そして同時に、自然災害など、人の力ではどうすることもできない困難にも立ち向かって来た。その繰り返しが、自然に対する畏敬の念を生み、信仰や伝説、風習や文化など、現代に受け継がれている。
近年、「ローカルな地域」への関与が社会課題となっている。国や自治体は関係人口や、居住人口を増やすための様々な施策を立案実行し、メディアやSNSで情報を発信する。
そのインフルエンサーや一般の人々を巻き込んで発信される「映える」画像や動画で、地域に興味を持つ理由は人それぞれ。
おしゃれなカフェ、美味しそうな料理、美しい風景、楽しいイベントなどが挙げられる。
しかしながら、せっかく足を運ぶなら、その地域の「風土」をしっかり感じたい。そして、その風土が醸成してきた人の営みや歴史、文化を理解すると面白いように「過去と現在」が結ばれていることに気付く。
「映え」の奥にある、土地の記憶を五感で呼び覚ますこと。過去と現在が交差する風土の魅力を知ることで、その地域を訪れる旅は、もっと濃密で愛おしいものになるはずだ。
「せきかわ歴史とみちの館」に展示されている関川村の地形ジオラマ
新潟県岩船郡関川村の風土を知る
新潟県の県北エリアに位置し、村上市、胎内市、山形県の小国町に隣接する関川村は、土地面積の約88%を広大な森林が占める。
村の中央を一級河川「荒川」が東西に貫き、大石川や女川、鍬江沢川など、周囲の急峻な山々から流れ出る数々の清流や沢がそこへ流入し、平野部の農業や温泉地を潤している。
気候は四季の寒暖差が非常に大きく、冬には数メートルの雪が降り積もる「特別豪雪地帯」。その森林に積もった雪が春には、良質な雪解け水として各河川へ流れ込み、環境省の「平成の銘水百選」にも選出された清流「荒川」を支える天然の水源となっている。
こうした、深い森林や豊かな水に溢れる風土は、関川村に現在も独自の信仰や伝説を育んでいる。
深い森林と豊かな水が育む関川村の風景
「大したもん蛇祭り」は例年8月末に開催される
「大したもん蛇祭り」と
大里峠の「大蛇伝説」
人口五千人に満たない小さな村が、熱狂と歓声に包まれる日がある。毎年、八月下旬に開催される関川村の一大イベント「大したもん蛇祭り」だ。
竹とワラで編まれた全長82・8m、重さ約2トンという、その仕様と長さがギネスブックで認定された「大蛇」を総勢約500人で村内を曳きまわし、練り歩く姿はまさに壮観の一言に尽きる。
この「大したもん蛇祭り」が始まったのが昭和63年(1988年)。その大蛇の長さ「82・8m」という数字に意味があり、昭和42年(1967年)8月28日、村に甚大な被害をもたらした「羽越水害」の日付に由来していて、祭り自体の由来も大蛇の巨体に、自然への畏怖と被災体験の伝承、防災への誓いが込められている。
しかし、なぜ「蛇」なのかの答えは、村に約370年以上前から伝わる「大里峠の大蛇伝説」にある。
伝説を要約すると、山あいの蛇喰(じゃばみ)地区(現在も地名として残存)に暮らす炭焼き職人の忠蔵(ちゅうぞう)と妻の「おりの」。おりのは、禁忌を破り夫が隠した大蛇の肉を全て食べた結果、自身が大蛇へと変貌する。
しばらく川に潜んでいたが、さらに巨大化するにつれて、居場所が狭くなったおりのは、「荒川をせき止め一帯を湖に沈める」という計画を企てる。
その危機を知った盲目の琵琶法師「蔵の市」は、他言をすれば、命を奪うと大蛇に告げられつつも、己の命と引き換えに大蛇の弱点(鉄)を村人に伝える。それを聞きら村人は、総出で大量の鉄の釘や杭を作り、大蛇が潜む大里峠の地面に打ち込み退治したが、「蔵の市」息絶えてしまう。という悲しくも勇敢な勇敢な伝説だ。
関川村下関に鎮座する「大蔵神社」境内
大里峠の「大蛇伝説」と「大蔵神社」
古より繋がる自然への畏敬の念
前述の自身の命と引き換えに村を救った琵琶法師「蔵の市」が祀られているのが関川村下関に鎮座する「大蔵神社」だ。
平安時代が始まる大同元年(806年)以前に創設されたと言われ、江戸時代の大里峠「大蛇伝説」の遥か古より、「須佐男命」「大国主命」「櫛稲田姫命」を御祭神として今に至っている。
この「須佐之男命(スサノオノミコト)」と「櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)」は日本神話における「ヤマタノオロチ退治」で有名な御神体だ。ヤマタノオロチは、「八岐大蛇」とも表記され八つの頭と尾を持つ大蛇で、河川に水害をもたらす象徴と伝えられている。一方のクシナダヒメは「稲田」の表記の通り、農耕や田畑の象徴と言われ、「ヤマタノオロチ退治」とは、絶えず繰り返された河川の氾濫から稲や田を守った話として解釈されている。
以上を踏まえて「大蔵神社」が大同元年(806年)以前から、この関川村に鎮座されている史実は、古から、この地に住む人々が荒川を始め、河川から多大な恩恵を受けつつも、畏敬の念を持ち、安寧を願い命を紡いできたことの証に他ならない。
そんなことを考えると「大したもん蛇祭り」の歴史は単に昭和の終わりに始まった新しいイベントではなく、この地に生きる人々が千年以上も受け継いできた「大蛇(=暴れ川)との闘いと共生」の記憶が、現代に形を変えて結実したものだと言わざるを得なく、後世に受け継がれる風習として未来へと受け継がれていくのだろう。
関川村女川地区より光兎山を望む
光兎山(こうさぎさん)と兎の伝説
関川村宮前に鎮座する「光兎神社」・境内の沢山のうさぎが出迎える
国重要文化財「渡邉邸」
関川村の風土がもたらした
渡邉邸の隆盛
最後に関川村の豪農であった渡邉家について触れることにする。渡邉邸は現在、国の重要文化財に指定されており、最も隆盛を誇ったのは、江戸時代のことである。
元は村上藩の郡奉行であった初代が延宝年間に関川の地に居を構えて以来、渡邉家はまさにこの地の「風土」を最大限に活かして隆盛を極めていった。周囲の急峻な山々から荒川へと流れ出る豊富な雪解け水は、広大な新田開発を可能にした。さらに、荒川の舟運を利用して日本海側の廻船業や酒造業へと乗り出し、米や酒の流通拠点として莫大な財を成したのである。