新潟にも、春が訪れている。
一部の地域を除き、桜の花も咲いている。新年度を迎え、新しいステージでの活躍をスタートさせ、希望に満ちた生活を送られている方も多いと思われる。
その反面、3月は期末の月で、慌ただしく世の中が動く時期であり、筆者もそれなりに忙殺の中にあった。
今回は、そんな先月を振り返り、早春の「瓢湖」を歩いた時の話を綴っていきたいと思う。
阿賀野市の瓢湖は冬の渡り鳥の飛来地で有名な場所だ。用水池として造られた人造湖であるが、毎年オオハクチョウやコハクチョウが約六千羽、その他カモ類も多く飛来し、越冬している。2008年には、ラムサール条約の登録湿地にもなっている。
少しこの瓢湖とハクチョウの歴史を振り返ると、1950年(昭和25年)に初めてハクチョウが飛来し、1954年(昭和29年)に故吉川重三郎氏が、野生のハクチョウの餌付けに日本で初めて成功したと記録されている。それ以来、冬の瓢湖での「ハクチョウの餌付け」は新潟の風物詩となり、現在でも多くの見物客が訪れている。そういった吉川氏のご尽力もあり、多くの新潟県民にとってハクチョウは冬に異国から来県する愛すべき存在となっている。ここ阿賀野市はもちろん、新潟市でも市の鳥として選定されている。
また、新潟をホームタウンとするプロサッカーやプロバスケットボール等のチームを有するスポーツクラブも「アルビレックス」という名称で、星座の白鳥座を構成する恒星「アルビレオ」にちなんだもの。サッカーや陸上競技が行われる県営スタジアムの愛称も「ビッグスワン」。こんなところにも新潟とハクチョウの親密な関係性が現れている。
しかしながら、「春の訪れ」はハクチョウとの別れの季節だ。3月に入ると、ハクチョウの群れが「北帰行」を始める。約六千羽がひしめき合い、賑やかだった湖面も、3月も半ばを迎えると、嘘のように静寂を取り戻す。そんなハクチョウとの別れ場面で、より一層の寂莫を感じる風景がある。力強く湖面を蹴り上げ、助走をつけ次々と飛んで行くハクチョウの群れの姿と対照的に、傷を負ったハクチョウが「ぽつん」と、所在無さそうに佇んでいるのである。彼らは飛ぶことができずどこにも行くことができない。
群れから置き去りにされ、この異国の地、新潟での生活を余儀なくされるのである。彼らに感情があるのかわからないが、穏やかならぬ心中を察することができる。
唐突に話は変わるが、今から約150年前、この新潟という異国の地に置き去りにされたイタリア人がいる。
―ピエトロ・ミリオーレ―
のちに「ミオラ」という愛称で新潟の人々に愛された、日本最古のイタリア料理店と言われる「イタリア軒」の創始者である。
「ミオラ」の話の前に、少し当時の時代背景を振り返る。
長い間、鎖国を続けてきた江戸幕府は1858年(安政5年)諸外国と修好通商条約を締結し、日本の五つの港を開港する。横浜、神戸、長崎、箱館(現函館)、そして新潟。新潟の場合、かの苛烈を極めた「北越戊辰戦争」の影響があり、開港が1869年(明治元年)となってしまったが、日本の中でもいち早く海外と接点をもった土地と言え、明治維新から始まった、「文明開化」という、日本のパラダイムシフトを引き起こす、時流の真っ只中に新潟も存在していた。
そんな中、1874年(明治7年)、新潟町(当時)にフランスの「スリエ曲馬団」が、やってくる。いわゆるサーカスの興行であるが、「ミオラ」は、その一団にコックとして帯同していた。
ところが、ミオラは興行期間中に大怪我を負ってしまい、次の興行地に帯同することができず、新潟という異国の地に置き去りにされてしまう。
その自身の怪我に加え、職も失い、憔悴しきったミオラに手を差し伸べたのが、現地スタッフとして曲馬団に雇われていた新潟の父娘だった。
これは、筆者の推測になるのだが、この父娘もなかなか覚悟がいるものだったと思う。あの時代に、言葉を始めとするコミュニケーション、傷の介抱、食事、身の回りの世話等、異文化の中で育った人間を生活の中に受け入れるのある。
いや、ただこれは筆者の愚推でこの父娘は、目の前の心身共に傷ついた人間を只々救いたいという、無垢な行動だったのかもしれない。事実、そういった行動はいつの時代も、更に他の人を動かす。
時の県令であった楠木正隆が、その話を聞き、ミオラに「牛鍋屋」を始めるように提案し、資金を提供する。その結果、ミオラは牛肉の小売りも兼ねる新潟初の西洋食品店をオープンすることになった。
1874年(明治7年)。来年創業150周年を迎える新潟の老舗「ホテルイタリア軒」の起源だ。
そしてここから、異国の地に置き去りにされたイタリア人ミオラと新潟の人々との交流が始まる。「文明開化」という時流の中で、店は大繁盛する。自身を手厚く介抱してくれた「おすい」とも夫婦となり、まさに幸せの渦中にあった。しかし、再度ミオラは悲劇に襲われる。
1880年(明治13年)の新潟大火により店舗が消失されてしまう。しかしここでも、妻「おすい」や新潟の人々の励ましや協力により、ミオラは翌年1881年(明治14年)現在の新潟市中央区西堀に瀟洒な洋風建築の本格洋食店「イタリア軒」をオープンする。異国情緒溢れる空間、ミオラの手による粋を尽くした洋食メニューは、当時の新潟の人々の心を更に掴み、「新潟の鹿鳴館」とも呼ばれ、当時の最先端をゆく新潟のシンボリックな場所となった。また、この「イタリア軒」が日本で初めて「ミートソース」をお客に提供した店と言われている。
こうして、ミオラは新潟の人々との濃密で、お互いにとって良い関係を熟成させて行く。しかしながら、新潟に置き去りにされてから約30年が経ち、晩年にさしかかったミオラは望郷の念を払拭することができず、イタリアに帰国する。そして1920年(大正9年)11月、故郷のチェリンで生涯を閉じたと言われている。
時は流れる。
その後、イタリア軒は1976年(昭和56年)にホテル事業を開始。「ホテルイタリア軒」として、現在に至る。寿司、日本料理、中国料理の飲食施設も充実し、創業の起源である洋食部門はリストランテ「マルコポーロ」に受け継がれ、ミオラによって紹介されたミートソースも「伝統のボロニア風ミートソーススパゲティ」として提供され、創業当時と変わらね老若男女に人気のメニューとなっている。
とある昼下がり、筆者はリストランテ「マルコポーロ」で食事をした。隣のテーブルには、小さなお子さんを連れた、若い家族。
運ばれてきたのは「伝統のボロニア風ミートスパゲティ」。
父親は、大きな手で器用に小さい皿に取り分ける。子供達は小さな手で少しぎこちなく、スパゲティをくるくる回し、口の中へ。
そして、満足そうな笑顔。
この表情を見た両親も幸せそうな表情を浮かべている。
「ミオラ」と新潟の人々が織りなす、小さな幸せのじかんは、今なお続いているようだ。