紐解く

毘と龍

山形県米沢市にて

2024117

 新年を迎えています。

 2024年は、不穏な幕開けだった。元日に発生した、石川県能登地域を震源とする地震は、甚大な被害を各地にもたらしている。被害に遭われた方々には謹んでお見舞いを申し上げると共に、一刻も早い復興を祈念しています。

 筆者は新年に、山形県米沢市の「上杉神社」を参拝した。御祭神は、その名が示す通り「上杉謙信」。その戦ぶりから「越後の龍」と異名を受けた戦国時代の武将である。

 もっとも自身を「毘沙門天」の化身と称し、居城であった「春日山城(新潟県上越市)」に毘沙門堂を建て、戦の前にはそこに籠り、必勝祈願をしたと言われている。

 ちなみに「毘沙門天」とは、仏教における仏神で、戦いの神であり、北方を守護する神。そんなことから、上杉家の軍旗には、「毘」の文字が記されている。

 もう一つ、上杉家には軍旗があり、そこには「龍」の文字がある。奇しくも本年は辰年であるが、その軍旗は「懸かり乱れ龍(かかりみだれのりゅう)の旗」と呼ばれ、本陣が総攻撃する際の合図として掲げられたそうである。

 七歳から十四歳まで、禅寺で過ごし「第一義」の思想を持つ上杉謙信は、戦にも義を重んじ、武門の誉れ高く、越後国、上野国のみならず、越中、能登へと勢力を伸ばした。

 と、ここまで、米沢藩上杉家の家祖「謙信」について色々端折って綴ってきたが、なぜ、越後の武家が米沢に? と、疑問に感じられる方に簡単にご説明すると、謙信の次代「上杉景勝」に端を発している。

 

 1578年3月、上杉謙信は急死する。死因は脳溢血であったと言われている。(死因は諸説あり。)この時点で、上杉家の次代当主は決められておらず、養子であった謙信の実姉の子「景勝」と、小田原の北条家から養子に迎えていた「景虎」の間で跡目争いがおきる。ちなみに謙信は「生涯不犯」を貫き、正室や、もちろん側室も置かず、実子はいない。

 それが、仏神「毘沙門天」の化身と称する自身への戒律であったのか、幼少の頃から仏門に帰依していたことに起因があることなのか、それは知る由もない。(謙信は無類の「酒好き」であったと言われていて、その部分は破戒している。)

 話がそれてしまったが、謙信が死んだ同年に勃発した跡目争い「御館の乱」は武力衝突を繰り返し、一年の月日をかけてようやく「景勝」の勝利となるが、残党勢力の抵抗もあり、完全に平定するまでには、さらにもう一年かかってしまう。また、論功行賞を巡り、上杉家の諸将同士による対立も発生してしまう。

 現代においてもそうなのだが、組織の力を衰退させるのは、外敵及び外部的な要因ではなく、内戦や組織内不調和などの、内部的な要因にあることが多い。それらは、結果として越後国の深刻な国力低下をもたらした。

 それに輪を掛け、時は群雄割拠の戦国時代、そんな上杉家の事情を待たずして次の脅威が訪れる。

「懸かり乱れ龍の旗」

 織田信長による上杉領地への侵攻

 

 そして、ここから上杉家は戦国時代のカオスに飲み込まれて行く。周辺諸国を織田勢に囲まれ、自身の領地である能登、越中も侵攻を受ける。特に越中の魚津城は三カ月の壮絶な籠城戦を強いられ、敗戦を悟った上杉方の守将13人が自刃し落城。いよいよ上杉家は滅亡の危機にさらされることになった時、まさしく「運」以外に説明できない状況が起こる。 

 

 本能寺の変にて織田信長が横死

 

 魚津城の落城は、1582年6月3日と言われている。

 本能寺の変は1582年6月2日。単純な日付の照らし合わせでは、魚津城落城の前日に敵軍の主君は、遠く離れた京の地で斃れていたことになる。そこは、現代と違い人の伝聞と書状のみが情報伝達の手段の時代。皮肉にも、上杉家から見た場合、完全たる敗戦に打ちのめされていた所、勝者の織田勢が思わぬ撤退を始め、九死に一生を得た形となった。

 以上の事柄も踏まえて、上杉景勝は、度重なる戦による国力低下を防ぐために織田信長の死後、台頭を表してきた「羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)」に近づき、1586年に正式に恭順の意を示し、秀吉の臣下に置かれることになる。

 その秀吉が後ろについた事が功を奏し、景勝は越後国において、長年の不安因子であった新発田氏、佐渡の本間氏を討伐し、平定する。また、現在の山形県庄内地区の一部も領地とし、約九十万石へ領地を拡大させた。

 その後、1597年、豊臣政権の五大老に任じられ(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家と共に)1598年、会津若松に百二十万石への加増を持って国替を命じられ越後を去ることになり、その同年八月に豊臣秀吉がこの世を去る。

 そして、時は1600年の「関ヶ原の戦い」に向っていくことになり、景勝は西軍(石田三成側)に与していたため、戦後、徳川家康によって、出羽国米沢へ三十万石の減封を持って転付させられ、その後、米沢藩として紆余曲折を経て、戊辰戦争を迎え現代に至っている。

 さらに長くなるので大部分を割愛したが、これが越後の上杉家が米沢の地にある顛末である。

 このことは正直に言うと、ある程度大人になってから集英社の『週刊少年ジャンプ』に連載されていた『花の慶次 ―雲の彼方に―』と言う漫画で知り、そこに描かれていた「上杉景勝」と「直江兼続」主従による武家の振る舞いや矜持みたいなものを好ましく思い、上杉家に興味を持ち、史実を調べるようになった。

 それ以来、筆者は幾度となく米沢を訪れている。非常におこがましい表現になるが、新潟県の先人が粉骨砕身した地として背筋が伸びる場所になっているし、米沢の地にある気風や風土も、とても好ましく思っている。