暦は「小満」を迎えました。
「草木が茂って天地に満ち始める」のが、この頃らしい。初夏から梅雨に向けて、植物が一番、躍動感を持って成長する時期ということなのだろうか。
思えば、人の活躍や評価なども、季節の移ろいと同じで、躍動感に溢れ、自信に満ちている時もあれば、思わぬ事態に停滞し、焦燥感に駆られる時もある。
新潟市西蒲区角田浜の岬に「判官舟かくし」と呼ばれる洞窟がある。ご承知の方も多いと思われるが「判官」とは、令制における官位の名称で、ここでは、「九郎判官(くろうほうがん)=源義経」のことを指す。
源義経と言えば、源氏にとって敵対する平家を滅亡させた立役者にも関わらず、一転して兄頼朝に追われ、逃亡の末、自害して果てた人物。その義経が奥州へ落ち延びる際に、追手から身を隠したのがこの「判官舟かくし」といわれている。
義経は、悲劇の主人公として一般的に知られ、世間の同情を一身に集め「判官贔屓(ほうがんびいき)=不遇な者、弱い者に同情し肩を持つこと」という言葉まで現代に残し、その人気故か、この洞窟のように各地に伝説を残している。
とはいえ、統治者であり権力者である頼朝からみた場合、相譲れぬものがあり起こった事態で、思いっきり雑に例えると、ホームランを打つけど、毎回サインに従わないバッターや、選手という立場なのに監督に黙って、勝手にコーチを始めたりする野球選手はやっぱり、やっぱりなのである。
しかしながら、一時は華やかな舞台に立っていた人物が身をやつし、この洞窟に隠れながら、生き延びなければならなかったことを慮り、この場に立つと、吹き付ける風や岩に打ち付ける波の音に諸行無常の響きを感じざるを得ないのである。
所が変わり、長岡市栃尾の栃堀という地域に「静御前の墓」なるものが存在している。こちらも義経関連の伝説の地だ。義経の愛妾であった静御前は、東北の地に落ち延びた義経の後を追い、会津を経由して向かおうとしていた所、この地にて病にかかり、逗留したが、従者の看病空しく命を落とし、従者や地元の人々によって埋葬されたと言われている。訪れた時も、地元の人によって花が手向けられていた。こちらも「判官贔屓」と言った所だろうか。
源義経も静御前も、言わば非業の死を遂げ、歴史の中では敗北した側に属される。ただし、時代を超えて残る言葉や、各地に残る伝説など作り、自分が生きた証として、人々に語り続けられるのは、この諸行無常な世の中においては、幸せなことなのかもしれない。