非常に由々しい事態が続いている。
いや、ここでアレコレ言っていても仕様がないのだが、由々しい事態が続いている。
本稿のタイトルでお察しのことと思われるのだが「鮭」についてのことである。先日もメディアでの報道があったが、ここ村上市三面川では、鮭の水揚げが昨年の20%しかなく、記録的な不漁とのことである。
「三面川」は、新潟県と山形県の県境に位置する「朝日連峰」を源にする河川で、流域の人々に多くの恵みを与えてきた。鮭もその一つで、文献によると、村上では、平安時代に朝廷に鮭を租税として納めていたとされている。
また、この村上の地は鮭の回帰性にいち早く気付き、世界初の人工増殖に成功した歴史がある。
江戸時代のこと。
村上藩にとって鮭は大切な収入源であったが、江戸中期においては、鮭漁が年々不漁が続き、窮困が続いていた。当時は鮭の生態や「回帰性」などを知るものなどおらず、状況を改善する策など皆無であった。
そんな時、自らの進退を賭して、村上藩主に訴えた者がいる。
―村上藩士・青砥武平治(あおと・ぶへいじ)―
武家社会において、「進退を賭して」藩主に訴えるということは、命に対する覚悟をすることである。
その青戸武平治の訴えの要点は、
- 毎年、鮭を獲れるだけ獲っていたので不漁が続いていること。
- 鮭は回帰性を持っているので、保護し、多く産卵させれば、後年の鮭漁によい影響があること。
- 以上を踏まえて、三面川の鮭が産卵しやすい分流を人工的に作ること。
下級武士の身でありながら、藩の行く末を憂いてのことであり、青戸武平治が良く鮭の事を見続けていたからこその訴えだったと言える。
その後、約30年かけて大工事を行い鮭が産卵をするための「種川」が完成する。そして、この「世界初」の鮭の増殖事業は成功し、村上は再び鮭の恩恵で豊かになり、時代を越えて今日まで、村上の産業や観光において欠くことのできない存在になっている。
話を前段に戻す。
そんな村上での歴史もあってか、新潟では故郷の川に鮭が帰ってくると誇らしい気分になる方も少なくない。また、故郷の川を旅立ち、遠く離れた大海で成長し、また産卵のために傷だらけになりながら、故郷の川を遡上する鮭の生き様が、人々の琴線に触れることも多い。そんな存在の鮭が、なかなか帰ってこないのだ。夏の猛暑による海水温の高さが原因の一つと言われているが、気が気でない日々が続いている。