紐解く

梅雨空

文月の三条市にて。

202372

 暦は文月を迎えた。

 新潟も梅雨の真っ只中で、「じめじめ」「蒸し蒸し」といった日々が続いている。

 また、近年この時期は各地から集中豪雨による被害の報が届いてくる。被害に遭われた地域の方々には謹んでお見舞い申し上げます。

 

 先日、身近な所で「沙羅双樹」を見かけた。「沙羅双樹」と言えば、『平家物語』の冒頭に出てくる、この一文が有名だ。

 

―――沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす―――

 

 要するに世の中の「儚さ」を表現している訳だが、それはこの花が朝に咲き、夕方には散ってしまうことに起因している。

 なんて、ここまで知ったかぶりのように綴っているが、実は、筆者は間違った情報を発信している。調べたところによると、日本の気候条件では「沙羅双樹」が育つ環境にない、とのことで、代わりに「ナツツバキ」を沙羅双樹に容姿や花の散り方(一日しか咲かない)が類似しているため、お寺等で植えているようだ。(仏教では「沙羅双樹」が三大聖木の一つのため。)

 なので、「先日、ナツツバキを身近な所で見かけた。」と綴るのが正しい表現になる。

 

 話は変わるが、今現在も外は雨が降り続いている。そこで、雨に纏わる日本語を調べてみた。

 単語では、「梅雨」「小ぬか雨」「小雨」「霧雨」「雷雨」「五月雨」「氷雨」「豪雨」「時雨」「春雨」「緑雨」など、季節や降り方によって使い分けられているし、「ばしゃばしゃ」「ざーざー」「しとしと」「ぱらぱら」「ぽつりぽつり」などの擬音語などもある。

 筆者は国語学者でもなんでもないので偉そうなことは言えないのだが、古の日本人の繊細な感性を察することができる。ただの「Rain」でも、「It’s Raining」でもないのである。

 それは、自分が言葉を発する際に相手側にどう伝わるかに細心の配慮をしていたとも言えるし、当時の日本人の心情が、例えると「好きか」「嫌いか」の二択では無く、好き嫌いの間に何層もの、曖昧な心の襞があって、それを言葉でうまく伝えるにはどうしたらいいかに、砕身していたことを示している。

 

 ―――気が付くと「しとしと」降り続く雨の中を傘もささずに歩いていた。そのことが、忘れようとしていた僕の生乾きな感情をさらに憂鬱なものにさせた。―――

 

 なんて綴れば、こいつ大丈夫か?となるし、

 

―――部屋の灯りを消し、窓を開けたまま眠ることにした。「ぽつりぽつり」と降り出した雨が「ざーざー」と本降りになった。その音が心地よく、いつの間にか眠りについていた。そんな「夜来の雨」も目覚めると止んでいた。「ぽたっ、ぽたっ」と、軒下から雨の雫が落ちる音が聞こえてくる―――

 

 と、表現すれば、天候や時間の移ろいがより理解できたりする。

 

 そもそも、言葉が進化した時代は、スマホもパソコンも無く、人に会う交通手段も無い。人に想いを伝え残すには、文書化するか、ようやく会えた人に言葉を尽くすしかないのである。そういった時代背景に日本特有の四季の移ろいや文化が織り交ざり、繊細な言葉の表現が蓄積されていったのかと思える。「雨」一つにとっても、季節や時間によって色々な降り方があり、その繊細な違いを人が感じ取っていたからこそ言葉として残った訳で、情報の発信者と受信者が、より感度の高い想像力で結ばれていたのだと思う。

 現代においては、情報発信ツールが発達し、深く考えなくても自分の思ったことや感じたことを気軽に動画等で発信できたりする。その情報を受信する方も、単純に「好きか、嫌いか」あるいは「面白いか、つまらないか」の二択で判断する。それは、とても便利で娯楽性が高いのだけれども、反面、美しい日本の言葉や表現が、今後使用されることなく埋もれていき、古の日本人が持っていた繊細な五感が退化していくようにも思う。(すでに退化している?)

 

 と、言いながら、筆者もだらだらと思ったことを情報発信してしまいました。

 

 この文章を綴っている間に、雨は止み、紫陽花の葉が「キラキラ」輝いています。